『オタキング』というより、今はダイエット本で有名になった岡田斗司夫氏の新作『オタクはすでに死んでいる』と、1996年に出版され、最近新たに文庫化された『オタク学入門』を読みました。
オタク学入門 (新潮文庫 (お-71-1)) (新潮文庫 (お-71-1))
- 作者: 岡田斗司夫
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2008/04/25
- メディア: 文庫
で、感想…… (注:感想です。評論ではありません)
まず、驚いたのは1996年、つまり今から10年以上前に出版された『オタク学入門』が、今読んでもちっとも色褪せてないことでした。おもしろい。さすがに10年前の本なので取り上げられている題材が古く感じられるのは否めませんが、それでもおもしろく感じられるのは、岡田氏の『洞察力、情報収集力、分析力、そして彼独自の理論のおもしろさ』 によるところが大きいのでしょう。立派なサブカル……いや、よくできたオタクカルチャーの本です。
で、最新作の『オタクはすでに死んでいる』も読んでみましたが、私には、この本が岡田氏の今の『萌え~を合言葉にするオタク達』に対する『愛情溢れるやわらかな説教本』に感じられました。あくまで私にはね。『きみたち。オタクがやっと市民権を得、せっかくオタク学という今までにない”おもしろい文化”が進化し始めようとしているのに、そして、世界中の人々も興味を持ち始めているというのに、それらをただの消費とアイデンティティーの道具にするのは、もったいないんじゃない?』てな感じで。
そうそう、読んでいて、ふと20年前を思い出しました。私がエニックス(現:スクエニ)で働いていた頃です。当時のエニックスには、岡田氏のいうところの第2世代のオタクな若者達がフリーの作家として出入りしていました。当時の私はオタクという種族は始めてだったので(なにせ田舎出身なもんで)、彼らが熱く語るゲーム、マンガ、アニメ、映画、小説の話の『濃さ』に驚き、なみなみならぬ興味をもちました。全員とは言いませんが、彼らの話はマンガやアニメにとどまらず、歴史、社会風俗、政治の話にまで飛躍していました。て、ゆーか、そういう話に抜きには『濃い話』にはならなかった、というのが正確なところでしょうか。で、そういうのもあってか、当時のオタクに対する私の印象は、社会や権威的なメインカルチャーが相手にしなかったマンガ、アニメ、ゲームの自己流評論家、啓蒙家、そして活動家(同人、イベントの)というものでした。(まぁ、クサイ、服装センスが悪いというのはおいといて(苦笑))
で、昨今のオタクについてですが……
現在私はあるゲーム学校で講師をやっていてもう5年目になりますが、年々、オタクと自称する学生の雰囲気が変化してきているのを実感しますね。評論家っぽいオタクは相変わらずいますが、その評論がアニメ、ゲームの中で完結することが多く、私がそれらに関連する社会現象や歴史の話をふると、一応、話すには話しますが意外と無知な部分があったり、黙り込んでしまうということが目立ちます。言い換えれば、感想は言えるのですが、分析、評論ができないというのでしょうか。あと、(これはどこの世界にもいますが)オタク学生が好きな作品を他の生徒に否定されると、まるで自分の人格を否定されたように激怒する者も増えてきたような気がします。
岡田氏の『オタクはすでに死んでいる』は、各方面?で賛否両論が繰り広げられているようですが、私はどちらかというと彼の論理には賛成で、『たしかにあの頃のオタクは、今の若者の中に少なくなったな……』という印象を否めません。もちろん、それは悪いとか良いとかという意味ではなく、『オタク』という社会現象が文化の一部として確実に認められ、そしてそれが今も変化し続けている『生きている文化として素直に肯定できる事実』という意味でということです。
蛇足ながら、昨今、思うにインターネットが世の中の人々をプロ、アマ問わず総評論家化させているような気がします。もし、死んでしまったオタクのハート(自己流評論家としての)がこれからも生き続けてゆくのなら、これからはマスコミに相手にされない埋もれた、もしくは葬られたサブ情報自体に対する評論家(情報オタク)に受け継がれてゆくような気がします。 まぁ、まったく論理性のない妄想ですがね……(苦笑)。