私はクリスチャンである。それもカトリックである。ただし、幼児洗礼だったので自分の意志で入信したわけではない。そのせいか子供の頃から教会のミサにろくに顔も出さず、クリスマスの頃に「そういえば、自分はクリスチャンだったなぁ…」と自覚したり、困った時だけに「神よ。お助け下さい…」と神にすがる程度の不心得な似非信者である。そんな似非信者の私だが、子供の頃、毎日のように”神”という存在を聞かされて育ったせいか、どうしても”神に見られている”という観念から逃れられず、”神”という言葉に対しても少なからず敏感なようだ。
先日、書店で気になるタイトルの新刊本が平積みされていた。”神の発見”というタイトルのそれは、作家の五木寛之氏と、カトリック”司教”の森一弘氏による対談本だった。内容はキリスト教素人の仏教徒五木寛之が”キリスト教と仏教”というテーマで、いろいろな”ぶっちゃけた”質問を森氏にぶつけるというものだった。”司教”自らが一作家の不躾な質問に答えるというのは珍しかったので早速、購読してみた。
で、感想――
カトリックというと”敬虔なクリスチャン”という言葉もあるように、過度に”真面目”で”厳格”なイメージがまとわりつくが、実際は、そのフランクさと土着性においては日本の仏教となんら変わりがないということを語る司教の言葉はカトリック…というかキリスト教に偏見のある人には新鮮に感じるだろうなと思った。
ふと、故郷の教会の神父様の事を思い出した。私が中学生の頃にいたフリゼッティというイタリア人の神父様だ。彼はかなりフランクというかユニークな神父様で、仏教、ヒンズー教、イスラム教等、すべての宗教を学び、「宗教なんてすべて根っこは同じですね~」「人生とは神が仕組んだものではありませ~ん。個人の選択の積み重ねで~す」と言い放ち、古くなった教会や付属の幼稚園を何の未練もなく建て替え、教会の中に若者が集う為の喫茶店を作ったり、また、私のお袋が真面目な信者からミサに行かなかった事を罵られた時も、「ただ儀式(ミサ)に出ればいいというもんではありませ~ん。大切なのはいつも心の中にイエス様を忘れないことで~す」と弁護してくれたり、山中のカーブ道を”頭文字D”も真っ青なドライブテクでニヤニヤしながらぶっちぎたり――と、とにかく私の神父様の古いイメージを、いや教会のイメージを次々と壊してくれた神父様だった。そんな彼のイメチェン作戦?が成功したのか、半ば老人達の溜まり場化しつつあった教会にいつしか若人が集まるようになり教会は活気に溢れるようになった。その後、彼はその功績が認められバチカン市国に戻った後”偉いさん(役職不明)”になったそうだ。そう言えば、先月の祖母の葬儀の時も、キリスト教の葬儀にもかかわらず、祭壇の前で御焼香を許していたなぁ…。その時の神父様(日本人・35歳)もユニークでフランクな人だった。あまりにフランク過ぎたので、初対面の時どこのオタク兄ちゃんかと思ったぐらいだ。(失礼…)
本の話に戻るが、この本で最後に書かれていた二人の言葉が印象深かったので引用しておく。
五木
『私は最近、既成の情報、常識、哲学などに個人が合わせるのではなくて、自分の生き方、自分なりの人生観を確立させることが非常に大切ではないかと考えているんです。だから、仏教にしろキリスト教にしろ、与えられた教義や信仰を、そのまま受け入れるのではなく、自分なりに咀嚼し自分にあった自分だけの信仰をつくることが大切ではないかと思っているのですが』
森
『私たちを包み込む光があるという信仰に徹していれば、私たちの生きている現実も、自分の中の醜さや罪深さは変わらなくとも、心の奥は穏やかに安らんでいきます』
写真は私の故郷の教会にある聖母子像。