”上を向いて歩こう”という歌は私がカラオケで必ずといっていいほど唄う歌だ。特に何処かで練習したわけではない。既に小学生の頃に無意識に口ずさんでいた。それだけ当時では庶民に親しまれたヒット曲だったということだ。歌っていたのは坂本九。いつも笑みを絶やさないその人のニキビ顔を見ながら「このおじさんは特別な人なのかな?」と子供心に思った記憶がある。
彼の”没後20年ドラマスペシャル・上を向いて歩こう坂本九物語”をTV東京でやっていたので観てみた。特に悪人が出るわけでもなく、特にこれ見よがしな演出をするわけでもない淡々とした演出は好感を得た。それは他局のような凄まじい視聴率競争から離脱し?マイペースで番組作りをしている元教育番組制作局のTV東京だからこそなせる技か?――と、思ったが、最後のスタッフロールで脚本がジェームス三木とわかり、なるほどなと納得した。どおりで手馴れている。最後の御巣鷹山の事故により坂本九がその生涯を終えた辺りの演出は、どこかの局の御巣鷹山関連ドラマのようにやたら肩に力が入ってなかった分、逆に涙を誘った。
実は、このドラマを観て初めて知ったのだが、”上を向いて歩こう”は、昭和30年代の集団就職で故郷を後にする若者(15歳ぐらい)達の為に、”見上げてごらん夜の星を”は夜間学校に通う勤労青年の為に作った歌だったそうだ。言われてみれば”上を向いて~”の詩をもう一度咀嚼してみると、確かに集団就職青年の都会での孤独さを現してると理解できるし、”見上げて~”も夜間学生が夢を抱きながら見上げる空は星空しかなかったというのも理解できる。作詩の永六輔、作曲の中村八大の決して恵まれていない庶民に対する愛情と優しさを感じる。そしてその気持ちを坂本九が微笑みながら庶民に唄い伝える。その他のヒット曲(作詞は別)例えば”明日がある””幸せなら手を叩こう””ジェンカ””鉛筆が一本”…等もシンプルだが忘れられない曲ばかりだ。(しかし中村八大はすばらしい作曲家だったのだなぁ…)
私には持論があり、それは『バカ者は簡単な事を難しく言い、リコウ者は難しい事を簡単に言う』というものだ。もちろん、これは私がバカ者だからこそ確信を持って言える持論だ。(キッパリ!) それは歌や映画や小説等の大衆作品に対しても変わらない。『名作は複雑な人間の心をわかり易い語り口で表現し、愚作はわかりきっている心情をやたらとわかりずらい語り口で表現する』 。 特に昨今は、世に出ている作品数の割にはやたらと愚作が多いような気がする。ITの影響か? 教育の影響か? 時代が”情報・知性コンプレックス”になってきているのではと思われるような論理武装をしている…というか、どうでもいい”薀蓄”でコーティングをしている作品が多い気がする。 やたらと哲学ぶるというか奥が深そうにみせたがるセリフワーク、演出の為の演出、劣化コピー的パロディー作品… 作品の偏差値のみ無難に高そうで、その実、作家の”言いたいこと”がサッパリ見えないものが目立つ気がする。(あくまで個人的意見です…) もちろん、そういう状況下でも人の心をうつ名作は数多く出ている。そして、それらの作品殆どに共通しているのは、私の持論ではないが”実は深い事を、わかり易く語っている”というところだろう。わかり易さとは技術だ。言い換えれば”相手を思いやる技術”だ。
――なんか、話がずれてしまったが、坂本九の歌が今でも私の心に残っているのは、それは”昔はよかった病”が発病したせいではなく、やはり彼の一連の歌が”わかり易かった”、つまり、相手を思いやる心が、詩、曲、そして歌声の中にあったからかもしれない。昔、”上を向いて歩こう”は”SYKIYAKI(すき焼き)”というタイトルでアメリカのビルボードでトップになった。日本語が分からぬアメリカ人に受け入れられたのだ。それは中村八大の心地良いジャジーな旋律のせいかも知れないが、私は、あの曲が持つ”思いやり”をアメリカ人も感じとってくれたのではないかと、いつものように感傷的に思った。