写真は”天空の城ラピュタ”の制作に携わった某アニメーターの方からいただいたセル画(本物)。ラピュタは宮崎アニメの中で私が一番好きな作品だ。だから、このセル画は私にとって宝物みたいなものだ。
【追記】
数ある宮崎アニメ作品の中で特にラピュタが好きな理由は、それが当時では珍しいボーイミーツガール式の純粋なジュブナイルストーリーで、且つ、児童文学並にキチンと創られていたからだ。決して難しくなく奇をてらわない素直なストーリー、そして「観ている者をワクワクさせてやるのだ!」という作者のサービス精神……。まさに少年の日に観たあの昭和30年代の東映動画の冒険活劇がラピュタにはある。興行的にはラピュタはそれほど良い成績をあげられなかったようだが、私にとってそんなことはどうでも良い。決して良質とはいえないアニメ作品が大量生産される昨今において、あえて”アニメ映画で良質の児童文学”を発表した宮崎氏のその行為の記念碑としても私はラピュタを意義ある作品とみなし好意的なのだ。
以前、友人の某アニメ監督(宮崎氏の一番弟子)から聞いた話だが、宮崎氏はこの作品の発表後、勧善懲悪のストーリーに疑問を抱き始めたそうだ。その影響か、以後、氏の作品にはラピュタのようなシンプルな勧善懲悪な作品が見受けられなくなった。
私は10年前に”ワンダープロジェクトJ”というゲームを創ったことがあるが、そのストーリーは”ジュブナイルとしてのラピュタ”に対する私なりのリスペクトとオマージュがこめられたものだった。 つまり、今でこそ言えるが、ワンダープロジェクトJというゲームは、宮崎氏がラピュタという形で一般客に問うたメッセージに対する、一人の客としての私の”個人的な答え”だったのだ。だから、当時、宮崎アニメのパクリじゃねーか!とゲームファンに非難されても私は「はい、そうです」と自信を持って答えていた。(ちなみに、ワンダープロジェクトJの制作にはラピュタのアニメスタッフ数人に参加してもらった。)
人がモノを創るという行為は機械のそれとは違う。いろいろな”想い”を込め、紡いでゆくものだ。その”想い”があるからこそモノから体温が感じられ人間らしさが出てくるのだろう。
記念にもらったセル画を見ながら、いろんなことを考えてしまった。
――バルス!な文鳥
PS:セル画のシーンは、シータがドーラの飛空船の見張り台にいるパズーに会いに行き『ああ、怖かった!』と言っているところ。(分かる人には分かるでしょう)