以前から気になっていた小説だったが、まぁ、そのうちに読むか――と思っている間に映画化もされDVDにもなり、文庫本にもなってしまったので超遅ればせながら読んでみた。(最近こればっかW)
私は小説を読んで泣くということはあまりないのだが、この作品の最後のページで心が震え不覚にも涙がハラハラと流れ、しばしの間それを止めることができなかった。久々に魂が震えた作品だった。(嗚呼、もっと早く読んどけばよかったなぁ……)
あらすじだが――(以下、文庫本の解説文引用)
広大な干拓地と水平線が広がる町に暮らすシュウジは、寡黙な父と気弱な母、地元有数の進学校に通う兄の四人家族だった。教会に顔を出しながら陸上に励むシュウジ。が、町に一大リゾートの開発計画が持ち上がり、優秀だったはずの兄が犯したある犯罪をきっかけに、シュウジ一家はたちまち苦難の道へと追い込まれる。犯罪者の弟としてクラスで孤立を深め、やがて一家離散の憂き目に遭ったシュウジは故郷を出て、ひとり東京へ向かうことを決意。途中に立ち寄った大阪で地獄のようなときを過ごす。孤独、祈り、暴力、セックス、聖書、殺人―。人とつながりたい・・・。ただそれだけを胸に煉獄の道のりを懸命に走り続けた少年の軌跡。比類なき感動のクライマックスが待ち受ける――と、いうもの。
この作品を読む前に作者の重松清氏の直木賞受賞作品『ビタミンF』を読んでみたが、この作家はとにかくその筆力もさることながら、日常を生きる普通の人々の心の陰影や揺れをリアルに繊細に描くことが秀逸だ。ビタミンFは親の目からみた家族の心の在りようと絆を描いたものだったが、『疾走』は崩壊した家族の犠牲となった孤独な少年のあまりに過酷な運命をビタミンFと同じ秀逸な筆力パワーで描くので読んでいてかなりヘビーだ。
しかし、そのヘビーさは『ただ重い』だけのヘビーさではない。『あなたは”ひとり”ということがどういうことなのか、考えたことがありますか?』という作者の感性の刃のような『問い』を常に突きつけられているようなヘビーさだ。『孤独』でもない、『孤立』でもない、『孤高』でもない――『ひとり』。 ――だれにも繋がることができない『ひとり』というものを。
私はこの物語を読み終えた後、何故か主人公のシュウジとキリストがダブってしまった。キリストがこの世の人々の罪をすべて背負って十字架にかけられ人々を救ったように、シュウジは彼が出会う人々が背負った『ひとり』をすべて背負い、そして**され、そして人々を救ったのではないかと。
この作品には聖書の引用が多い。聖書には『救い』を求める人々にあてた『言葉』がちりばめられている。シュウジは究極の『ひとり』にさらされ一度『言葉』を否定した。しかし、彼は結果的にそのあまりにも過酷な運命を通して『救い』を理解したのではないか?と、思ったりもした。
昨今、マスコミは『いじめ』による自殺の問題を多くとりあげているようだが、それらに関する偉い方々のどのコメントを聞いても、歯の浮くようなシラジラしさしか感じられない。私は『いじめ』の問題は今後も絶対なくならないだろうと思っている。何故なら『いじめ』は教育の構造的な問題ではなく、あくまで人間ひとりひとりが持つ『心の闇の問題』だと思っているからだ。この世の中、学校に限らず家庭内だろうが、会社だろうが、地域だろうが、国家間だろうが、どこかで『いじめ』という心の闇が形になっている。もし、その闇の形が減る、いや、人々が心の闇から救われる可能性が少しでもあるとしたら、たぶんそれは、この作品のシュウジのような人々の『心の闇』を背負ってくれる人間が現れる…いや、人知れず犠牲になってくれる人間が現れたときなのかもなぁ――と、小説を読んで思った。
ふ~……。しかし、思うに、人間って常に何かを背負って生きねばならないようになっているんだろうなぁ……。まるで、ゴルゴダの丘に向かって十字架をかついで歩くキリストのように。(ベタな例えですんません)