祖母の葬儀がすんだ次の日、私は久々の故郷の町を散策してみた。町は昨日から続いている”荒神(コージン)さん”という祭りで賑わっていた。(祭りの正式名は火産霊神社夏祭りという)



私が子供の頃住んでいた仲町という商店街(写真右)は今よりもっと活気があり、夜店や屋台も多く出て人通りも多かったが、時の流れがすっかり様変わりさせていた。それでも、夕方にもなれば多くの町民が集まり”祭り”を十二分に楽しんでいた。(ちなみに町の古い商店街は廃れてきているが、その他の施設や郊外のショッピングセンターは都会並に発展している)



この祭りの花形は”太鼓台”という暴れ太鼓だ。大太鼓が備えられた神輿を、その柱にくくりつけられた二名の小学生が叩き、その神輿を若い衆が勇壮にかつぎ練り歩く。(私も小学生の頃、この太鼓の叩き手として特訓を受けたが根性がなくて途中で挫折したという情けない経験がある) 今でこそ大人しくなったようだが昔はかなりムチャをして神輿ごと商店に突っ込んで店を壊したり、神輿の担ぎ棒の下敷きになった担ぎ手も多く、怪我人も絶えなかったようだ。私も担いだことがあるが、かなり重いので次の日肩がはれ上がった記憶がある。弟の話によると、年々祭りを主催する地区の担ぎ手が減ってきているので、地区外の”担ぎたい若者”にも担がせてやっているそうだ。その中には”根性のある強面のお兄さんがた”もいるらしいが、まぁ、祭りということで大目に見ているそうだ。もちろん地元の警察が目を光らせてはいるが。(上と下左の写真は高鍋町のパンフレットより



江戸時代、高鍋藩の城があった山へ行ってみた。今は舞鶴公園という城山になっている。ここは私が若い頃よくジョギングをしていた城山だ。辛いこと、やりきれないことがある度、私はこの山の頂上まで駆け登り眼下に広がる町や日向灘を見ながら気分転換をしていたものだ。その久々の城山だったが、残念なことにかなり荒れ果てていた。その理由を弟が言うには、町に予算がなくなかなか充実した管理ができなくなってきたからだそうだ。正直、がっかりしたが予算がないのでは仕方がない。「兄ちゃん、地方の小さな町の財政は大変なんだ。税収も少ないし。町村合併の話もあるけど、皆自分の町の利益ばかり優先してうまくまとまらないんだ」と、弟がやりきれない顔をした。弟は町役場で公園管理等の仕事をしている。先日も公園整備費の予算がなくて自ら公園へ出向き炎天下の下、一日中草むしりと掃除をしてきたそうだ。



ところで、上の写真はその舞鶴公園にある石碑だ。亀の背中に石碑が立っている。私が子供の頃はこの石碑の意味がわからず、亀の首に座っては、「浦島太郎じゃ! ガメラじゃ!」とふざけていたが、今回改めて石碑の横にある説明書きを読んでみると、これは『戊辰戦争で亡くなった若き戦士達の慰霊碑』だったことがわかった。「バカなガキだったとはいえ、バチあたりなことをしてたんだなぁ…」と、思わず私は慰霊碑の前で手を合わせて謝った。


この高鍋という町にはいたるところに歴史の足跡がある。古墳あり、城跡あり、古戦場あり、最後の連合艦隊司令官”小沢治三郎”の実家あり(そのひ孫が今の町長。私の実家はこの小沢家にお世話になった) 明倫堂といわれる上杉鷹山ゆかりの地あり、日本で最初に孤児院を作った石井十次の生誕の地あり…等、この歳になり歴史に興味がでてくると、若い頃とはまた違った意味でこの故郷の町のおもしろさが発見できる。


人であろうが、町であろうが、すべてには時間と命が育くんだ”歴史”があるものだ。この世に無駄なものは一切ないのだなぁ… と改めて思ってしまった。


久々の故郷の心地良い暑さに汗まみれになった私は舞鶴公園を降りていった。背後から一段と強まった蝉の大合唱が気になり振り向いた。山を必死になって駆け登って行くあの頃の若い自分を見たような気がした。

投稿者 mori-game